備忘録

 

何かの出来事や物事に直面したとき、その人の感じ方や思考、受け止め方や捉え方は、今まで生きてきた中で身につけた感じ方の習慣であるし、それがその人の内面であり性格であるように思う。

 

社会の一員になって、多くの理不尽な出来事(あくまでも個人的な感じ方だけど)や納得いかない出来事・仕組みに直面し、また今まで想い描いていた理想や期待がぽっきりへし折れるという出来事が多くあった。

 

それらを通し私はまず、自分の物事の受け止めかたを変えることにした。

自身の描いていた理想や期待と異なっていたとしても、その物事や仕組みにもそうなった経緯や理由があり、それらを知り理解することで自分を納得させようとした。そして結果からいえば、私にはそれができなかった。多くのことをマイナスに捉え、その習慣を変えようと躍起になり、「他にどう捉えればいいのか」を考える機会が増えすぎる中で、答えが出ないまま次から次に疑問や不安が湧き出てくるのだ。消化しきれなかった思いや思考は、自分の中に日々渦巻き、自分を攻撃し、時には他人を傷つける種となった。それからは息がうまくできなくなり、気持ちを落ち着かせたり、呼吸がうまくできるように薬を飲んで生活するようになった。今は薬を飲むことで、前向きにもなれ、むやみに自分や他人を傷つけることはとても少なくなった。

 

ここまでの数か月の中で自身についていくつか気づけたことがある。

  1. 何かに直面したときにその理由や経緯を深堀りし理解し納得しようとする習慣が強い
  2. 自分より大きなもの(組織)や年齢・地位が上の人は無条件に自分よりもすべてにおいて優れており正しい、と無意識下で思っていたこと

 

 

1に関しては他人を知ろうとする際に行っていることが多い。彼または彼女の言動のもとになっている習慣や考え方、感じ方を予測したびたびすり合わせることにより、その人の根底にあるものが見えることがある。(しかしこれは見えたつもりであるだけであり、その見え方も自分個人の物差しの尺度で量っているため大変個人的なものであるが。)まあ他人に対する評価や受け取り方もその人個人の習慣や感じ方によって左右されるため、私自身の尺度でしかないが、今までこの物差しで生き、今の自分が出来上がり満足している部分も大きいので、おおむね頼りにしているものでもある。また、この自分の物差しの傾向も形取りくらいはわかってきたのである程度コントロールできるようになってきたと思う。

話しが逸れてしまったが、この習慣を「会社」や「上司」に向けて行ってしまったことが自分を苦しめた大きな要因であったように思う。まずそもそも自分の中にある、社会に対する物差しが小さく未熟であるため、見つけた見解も少なく、また自分の中で消化しきれないものばかりであったうえ、それらの行き場も自分にはまだなかった(今もない)。すべての理由や経緯を知ることが自分の納得につながらないという当たり前のこと、また、自身の物差しで量りそれらを評価した際、受け入れるか拒否するかの選択は自分が出来ること、そしてすべてを物差しで量ることが良いというわけではないこと。なにもかも当たり前のことかもしれないが、自身が毎日繰り返していた習慣を知り、考え振り返り、学べた経験であり必要な経験であったと思う。

 

2に関しては自分の根本にある自信のなさと育ち方が大きく関与していると思う。自分より目上の他人が正しいと信じて疑わないことで思考停止していたことは、一種の宗教のようだとすら感じる。そういった意味では、思考停止した私ですら疑問に思えるような「大人」ばかりがいる会社に入社し、考え直すきっかけになったのはある意味良かったのかもしれない。育った環境や親との関係、その中で身につけた考え方の習慣がその人を作っていること、それがその人の本質であること、そして人間の本質に年齢なんて関係なく、正しい人や「大人」なんてどこにもいないことを再認識することが出来た。

 

少し話が逸れるが、先日社長から自己啓発セミナーに参加する機会を与えていただいた。講義の内容は今回書いたこの記事に似ている部分もあり、うなずけることもあった。しかし私はそのセミナー自体が自分には合わないと感じた。研修セミナーの内容の前提が「自己成長」が目的であったこと、「成長することがすべてであり、それ以外は間違った生き方だ」という理念が端々に見えたこと、理屈で物事を説明しないこと、また人の心の隙間に入り込んで目に見えない安心という名の「商品」を多額で売っていることに納得いかなかったことがメインだ。

何を信じて何にお金を払うか、それは個人の自由であるし、他人がどうしようと私が口外することではない。しかし私自身は多額のお金を支払って、よくわからない誰かの「お話し」を聞いただけで自分のコンプレックスが解消された気にはなれないし、「変われる」とも「なりたい自分になれた」とも思えない。

そこに参加していたのは中小企業の社員がほとんどであったが、中には経営者の方や60を過ぎた方もいらっしゃった。私の目には、彼らはこの研修セミナーを3日間必死で取り組み乗り越えることで、自身が成長し変わることができると信じてやまない、というようにように見えた。いくつになっても、どんな立場にいても、今の自分や現状を肯定し受け入れることができないこともあるんだなあとか、そういった心の状態は他人のお金になるよなあとか、やっぱり人間の本質に年齢なんて関係ないんだなあとか、そんなことをふわふわ考えた。

 

自分の頭で考えることや、何かしらの信念を持つこと、自分が自分であることを喜べる居場所(ハマれる趣味や好きなこと)を持つこと、なにより自分を好きになって自信をもつことは大切なことだね。

 

自分には合わない、または自分を変える努力に限界を感じたら、精神が健康でいられるように場所を変えよう、行動しよう、と決意したので、感じたこと考えたことを備忘録のために。